その晩、野毛のコハクのカウンター奥にはいつものように萩小田が座っており、ナッツの盛り合わせなどを退屈そうにつまみながら、テレビから流れる「マリノス・ホーム戦連勝ストップ」を横目で見ていた。すると濁った音のベルが入口から聞こえ、振り向くと、久々の顔が扉を開けていた。
萩小田は結衣を手招きすると、彼女は萩小田の隣、いつも誠一が座っている椅子に腰かけて、彼がボトルキープしている二階堂をマスターに持ってこさせた。
「いいの? それ」
「いいんですよ、これくらい」
結衣はグラスに注いだ二階堂を水で割って、それを一息で飲み干すと、カウンターに身体を預け、そのまま押し黙った。これは、こちら側から何か切り出さなければ始まらないのだろう、萩小田は思い、最後のナッツを噛み砕くと、聞いた。
「最近どう?」
間を置いて、結衣が口を開く。
「私ね、カレー作ったんですよ。さっき」
「いいじゃない。二人で食べなよ」
「それはもう、ちゃんと食べましたよ。ちゃんと」
ローテーブルに置かれたカレー。二人、顔を突き合わせ、口へ運ぶ。おいしい? おいしいよ。なんかこう、俺の為に作ってくれたって考えると、嬉しい。うん、嬉しい。と言う誠一の顔は、微笑んでいる。記号として。嬉しい所作はこのようなものでよろしいかと出力したかのような微笑みを以て、カレーが口に運ばれる。
「それはちょっと、悪い方向に見過ぎなんじゃないの」
「そうなのかな、どうなんでしょうね。被害妄想かもですけどね」
まあ、一緒に暮らして初めて分かることもあるんでしょうね、萩小田が当たり障りもないことを繋ぎのように呟くと、結衣がゆっくり伸びをして、こう口を開く。
「一緒に暮らそうって言ったの、私だったんですよ。いい加減猫をやめて、ちゃんと真面目に生活しようって思って」
「猫をやめて?」
「猫っぽい自分があるでしょ。それを望む声が自分を猫っぽくして、そうしたらもう、どこまでが私なのかって分からないじゃないですか。だから疲れちゃって」
結衣が言いながら、空になったグラスを傾けると、二階堂の雫を舌でちろと舐め、自嘲めいた、それでいてどこか不敵な笑みを浮かべる。疲れちゃった割には、その所作もよほど猫のそれだろう、萩小田は内心で思いながら、黙って彼女の話の続きを聞いた。
そういうのを全部やめようと思って、今までのそういう役柄全部。飲み歩くキャラも、べろべろで人に迷惑をかけるやつも、気まぐれとか、自由奔放とか、ゆるーい雰囲気とか、そういうのじゃなくて、普通に散歩して、良さげなクロワッサンとか見つけて、セーイチくんと一緒にそれを食べて、ご飯作って、洗濯して、お風呂入って、日付変わる前に寝るみたいな人になりたかった。
「でも、それは猫じゃないんですよね。セーイチくんが撫でたくなるような猫じゃない」
萩小田は片肘をつきながら、思い出した。誠一がいつかの夜、結衣が姿を消した夜にコハクに来た時、何ヶ月か前の彼女は人が変わったかのように落ち着いていたと話していた。それがここ最近になって、また夜遊びが頻発していると。
「結衣さんさあ。俺、バツ付いてる話したじゃない。もう大分デカい子供もいて」
萩小田が無精髭を指で引っ掻きながら、言葉を選ぶ。
「離婚しちゃったら元も子もないけどさ、流石に子供ができた時って、めちゃくちゃ仕事とか生活とか頑張れたんだよ」
萩小田は言う。勿論、家族を楽にさせたい思いもあったかもしれない。が、それ以上に型を宛がわれたことに安堵を覚えた我が身もまた、否定できなかった。父親、大黒柱、身を置ける記号に身を委ね、良くも悪くも増長する自分がいる。
「でも、時々それがえらい窮屈で、どうしようもなくなることもあって」
「それが、私だと?」
萩小田は何も返さず、追加で頼んだナッツを奥歯で噛み砕く。結衣は深い溜め息をつくと、首を左右に振り
「別に、私が頼んだわけじゃないんですけどね。周りの皆がせっせと猫の型を作って、ここにはまれば楽ですよって。で、確かに楽でしたよ、何も考えなくていいから」
彼女は二階堂の二杯目を注ぐとストレートで一口だけ煽り、強めに音を立ててカウンターにグラスを置くと、一つ呟いた。
「じゃあ、私がそれだとしたら、セーイチくんは、何?」
結衣の眼光に気圧され、萩小田の目が泳ぐ。
「茂原さんは、まあ、あれよ」
「あれ?」
目を背けながら、彼が続けた。
「その型すら完全に結衣さんに依存してるって言うか、結衣さんがいないと成立しないって言うか」
「何それ」
結衣が萩小田に向ける眼差しは、猫が不服の意を飼い主に投げかけるそれと、まったく相違がなかった。しばし互いに黙り込む時間が続いた後、彼女は
「まあ、後は自分で考えます」
と言って椅子を立ち、やはり皺だらけの千円札を一枚カウンターに置いて、コハクを離れた。萩小田はそれを見て、チャージ代にも足りないな、と考えた。
彼はラガー瓶を頼み、独りで小グラスに注ぐ。泡だらけのそれを煽ると、萩小田は誠一を思う。
結衣には、寸でのところで言わなかった。あいつに必要なのは、それそのものじゃないんだよ。だからって、あんたの忌まわしい猫の「型」すら、好きかどうかは分からない。だってあいつは、猫のような女を介抱して、やれやれとか言いながら介抱して、それが何よりの歓びなんだから。
猫を捨てたい女と、猫助けに意義を見出す男。
萩小田は再びビールをグラスに注ぎ、空になった頃、再び錆びた鐘の音が聞こえ、恐らく知っている顔だろうなと思ったら、やはり誠一だった。
彼は先程結衣が飲んでいた二階堂のボトルキープを頼み、渡されたそれの軽さに一瞬驚いたような仕草を見せたが、萩小田は何も言わない。彼は二階堂を水で割り、やはり半分だけ喉に流すと、右片方の端を小さく歪めながら、一言だけ呟いた。
「いなくなってた」
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