身体が左右に揺れる。どうも、椎橋結衣は椅子の上に座っているようだった。関内のバーだったか、いや、誠一に背負われ、今は電車の中か。アルコールと眠気で散らばった思考を必死にかき集めながら、彼女はようやく自らの現在位置を自覚し始めた。
電車が停まり、走り出し、そのリズムの中で、彼女は先程誠一に言われた「猫じゃないんだから」という言葉を思い出していた。また言われた、犬でもない、兎でもない。猫。
何を以てそのように思われ続けたのだろうか。丸く締まった眼のせいか、気まぐれで飽きが早い性格故か、それともゆらゆらと芯のない所作のお陰か、ともかく椎橋結衣は物心付かない頃から「猫のような子」との付箋を貼られ、その通りであることを漠然と受容され続けてきた。
小学生の頃、友達と遊んでいて、少しでも気に食わないことがあればふいと踵を返し、家に帰ってしまう。それを見て、相変わらずユイは気まぐれだね、ほんと猫みたいな子なんだから。母が呆れる。翌日学校に行けば、なんでまた途中で帰っちゃったの、ユイはいっつも猫みたいにすぐいなくなる。昨日、一緒に遊んでいた友人達が言う。
高校、窓際の席、昼休み後の数学、意識も飛び飛びになっていたところで、教師に声をかけられる。いくら猫だからって、日向ぼっこでうたた寝は許されないぞ。クラスメイトが笑う。
放課後、体育館裏、特に名前も知らない誰かからの告白。付き合ってください。理由を訊くと、俺、猫が好きなんです。きりっとした丸い目とか、マイペースで捉えどころがない感じとか、隣のクラスだけど、昔からユイさんの「猫っぽい」感じが物凄く可愛いなってずっと思ってて。って言うかうちの猫にそっくりなんですよ、三匹いるんだけど、ほら、この茶虎のやつが本当に似てるなってずっと。
鶏が先か、卵が先か。猫のような自分が先か、猫のような自分を望む誰かの声が先か。
スマホを開けば、小悪魔系猫女子は市場価値が高い、得体の知れないキュレーションサイトに煽られる。ユイは絶対素のままで、猫のままで行った方がいいって。合コンに向かう道中、特に親しくもない職場の同僚が言う。馬車道の小奇麗なイタリアン、真正面に座った男に、俺、猫みたいな女の子が相手だと燃えちゃうんだよね、どこまでも追っかけるから、冗談めかして言われたが、その眼は笑っていない。翌朝、先にベッドを抜け出した男が洗面台に向かい、独り言ちるように呟く。なんか、思ったよりだったな。
ベッドの上でさえ気まぐれであることを望まれるならば、そうしてやろう。いよいよ拍車がかかった。毎晩のように飲み歩き、男を惑わせ、勘違いさせ、精々勝手な夢を見させることで、己と猫の恒常的な同質化を積極的に図った。
猫のような女。過去今までのあらゆる誰かが口々に望んだ、完璧に猫のような女。気だるげで、移り気で、したたかで、気に食わないニュースには爪を立てて、思いのまま、感じたまま。そして、時にそんな己を誇らしく思うこともあれば、疎ましく思う瞬間もある。ともすれば、重く鈍い鉛をせっせと削って楔を作り、それを自らの足元に金槌で強く打ち付けてしまったような、自らをまったく身動きが取れない状態にしてしまったのではないかという、漠然と強迫的な怖気もまた、断続的に抱きつつあった。
呪詛を解く頃合いだな。ある日、コハクのカウンターに身を委ねながら、ふと結衣は思った。次の男が誰だろうが、歳を経る毎に蔦のように絡み付いてきた「猫のような」椎橋結衣を捨て去る覚悟を決めようと。
「この人、結衣さん。椎橋結衣さん。大分常連よね。今は何やってるんだっけ?」
コハクの常連客、萩小田が言った。その後ろには見知らぬ男。
「椎橋でーす。エアキャビンのスタッフやってまーす。よろしくー」
結衣は猫背を起こすこともなく言い、男の方へ二、三秒首を向けた。同年齢くらいだろうか、取り立てて大した特徴もない、小ざっぱりとした中肉中背。結衣に注がれた男の眼差しを見て、ああ、興味を持たれているな。彼女はそう悟るとすぐにカウンターへと視線を戻し、グラスに注がれていたマイヤーズを口に放った。
「あっ、茂原誠一です。萩小田さんが仕事のお客さんで」
幾日かが過ぎ、その日は珍しく結衣が街に出ておらず、朝の八時頃に目を覚ました。誠一も続けて布団を出て、寝癖を左手で押さえながら、コーヒーを淹れて結衣に寄越す。
袋から小さなロールパンを取り出し、コーヒーを啜りながら齧る。小傷が目立つローテーブルに二人が向かい合って座り、この光景は果たしていつ以来だろうか、誠一は考えた。
「ちゃんと二人揃って朝食べるって、あんまりなかったよね」
結衣も同じことを考えているようだった。彼女の仕事は不規則なシフト制で、二人がこの部屋で顔を見合わせる時間は元々限られていたし、何より隙あらば朝まで知らない男と飲み歩くような女である。朝から二人がパンなど頬張り、一息つく余裕など持てるとは、誠一には思いもよらなかった。
「いや、でも一時期あったか。半年くらい前」
彼は独り言ちる。結衣はその言葉を特に気にも留めず、今日はお互いに休みだけど、どうしようかと言った。どこに行きたいかと誠一が聞くと、外は日和だし、ただ取り留めなくその辺りをふらふらしたいと彼女は言った。
「正直、近過ぎて逆にあんまりザ・横浜! って感じのところをちゃんと回ったこともないんだよね。飲むにしたって夜だから景色何て分からないし」
心なしか、マグカップを持つ結衣の声は弾んでいる。誠一は特に言葉を返さず、ソファの上に放り投げられていたジャケットを手に取った。
アパートを出て坂を上がり、山手駅から根岸線で桜木町へ向かう。改札を出て、普段なら左へ向くはずの足取りを右に直し、汽車道を通り、エアキャビンの運河パーク駅が目に入れば、赤レンガ倉庫はすぐだった。
「私、普段は駅の方の事務所に閉じこもりだからさ。赤レンガの方って行かないんだ」
赤レンガパークのベンチに腰掛け、運河の向こう、大さん橋に停泊する名も知らぬ豪華客船を眺める。快晴を切り込むようにウミネコが飛び交い、欄干に停まっては飛び発ちを代わる代わる繰り返す。結衣が写真を撮ろうと躍起になり、ベンチを立ったり座ったり、スマホを取り出したりしまったり、何かと忙しない。
差すような日差しが青を貫いてフレアを作り、ベンチを余すことなく照らし付ける。緩めの白いブラウスを、肩を落として着る結衣が、誠一の目にはひたすらに眩しい。
誠一は思う。改めてまじまじと彼女を見入る機会などそうそう設けなかったが、やはり結衣は魅力的な女性だった。あばたもえくぼとは言ったものだが、いくら手を焼こうとも、どれほど苦々しい思いに駆られようとも、世話をかけた分だけ、こうして無邪気に佇む姿一つとっても、際限なく愛おしい、ような、気がする。誠一が、自由奔放な彼女を見切るに見切れない理由はここにあるものだと、彼は思っていた。
ワールドポーターズ内のハンバーガー屋で昼食をとり、併設のイオンシネマで漫画原作の恋愛映画を観て、その内容の如何はさておくとして、彼らは真っ当にデートと形容されるべき時間を過ごしていた。元町にひしめく店構えに互いに目を奪われていれば日は暮れゆき、二人は歩いて山手の方まで帰ることにした。
「あれってさあ、結局何なんだろうね」
道中、結衣が指差したその先に、根岸外国人霊園の、薄汚れた石造りの門。何故か今日に限って開いており、管理人と思しき人影を探したものの見当たらず、二人はしばしの間考えた後、敷地内へと足を踏み入れた。
「墓地? お墓だよね、これ」
「不動産屋の人が言ってたじゃん。外国人墓地だよ」
「外人さん? どんな外人さんなんだろ」
米兵とパン助との間に生まれた、出自も名前も分からない無数のGIベイビー達、と説明するのも野暮だったし、結衣もそれ以上誠一に問うことはなかった。
名もなき墓標達の横を踏みしめるようにゆっくりと歩き、園内が宵闇に包まれん頃、結衣が俯いて目を閉じ、どこの誰に向けてでもなく、手を合わせて祈った。誠一はそれを横目に思った。打ち棄てられた水子の山。守られるはずだった、慈しまれるはずだった誰かと誰かの子。子として泣く、子として笑う、子として遊び、食べ、眠り、その役割を寸分も与えられずに、無慈悲に葬られる恐怖とは、悲哀とは。
「帰ろうか」
結衣に声をかけると、彼女は合わせていた手を下ろし、こちらに駆け寄った。
「夕飯作るよ。何がいい?」
「ああ」
作るのか、結衣が。嬉しいはずが、喜ぶべきはずが、どこかで引いた感情を覚えてしまうのは、いまひとつ心躍るには何かが足枷になっているような気分を抱いてしまうのは、何故だろうか。誠一には分からない。
「何だろうな」
「何?」
「何でもいいかな」
「え?」
「いや、嘘、カレーが食べたい」
別にカレーなど食べたくはない。結衣の手料理など、大して望んでいない。台所に立ち鍋の灰汁を取る結衣に、さほど興味はない。ならば、一体彼はこの女に、何を願っているのだろうか。それが、分からない。
「カレーがいい、カレーが」
誠一は続けたが、結衣は彼の離れたところで俯き、しばらくの時間が流れた。暗がりに隠れ、彼女の表情はいまひとつ読み取れなかったが、決して喜ばしいものではなさそうであることくらいは、誠一も薄々分かっていた。だが、やがて顔を上げた結衣は、まるでその日の晴れ空のように屈託ない笑みで
「じゃあ、そうしようか」
スーパー行こう、何にも買ってないから。と言った。

