「急ぎ過ぎなんじゃない?」
話は現在に立ち返り、萩小田がカウンターにもたれながら言った。
「急ぎ過ぎ」
「だってあの後、割とすぐ同棲始めてたじゃん。生活空間でもずっと一緒って、結構向こうにはストレスかもよ」
「でも言ってきたの、結衣からですよ」
誠一は思う。もし自分の行動に制約を発生させたくないのであれば、わざわざ自ら一緒に棲もうと提案するだろうか。
「じゃあ、分かんね」
萩小田はそう吐き捨てると、小皿に並んだクリームチーズの最後の一欠片を放り込み、腕を組んでしばし考える仕草を見せる。
「でも、ここ何ヶ月か前まではまったく落ち着いてるって言ってたじゃない」
「落ち着いてましたよ。夜もそうだし、昼も全然遊びに行かないし。仕事以外は基本家にいて。でも、またぶり返して」
山手は外国人墓地の近くにアパートを借りた。築二十五年、一LDKで家賃は九万弱。結衣は新居の何をそこまで気に入ったのか、そのうち夜半の飲み歩きをぴたりと止め、浴槽を洗ったり、白菜と卵と納豆を買ったり、天気が良い日は洗濯物をベランダに干したり、清々しいほどの「暮らし」を始めた。だから誠一が残業で退勤が遅くなり、日付をとうに超えた段階で家に帰ると既に灯りが落ちており、ベッドで横になり静かな寝息を立てる結衣を見た時は、大層驚かされた。
「いや寝てんのかいって思って。今まであんなに遊んでたのに。この時間に寝られるんだこの人、って」
「それは良かったんじゃん、全然。それで」
「いや、良かったんですよそれで。それは全然、そりゃそうだし」
「じゃあ、どっちがいいのよ」
萩小田が腰を伸ばし、大きく伸びをする。
「遊びながら落ち着くってのは、無理な注文でしょ」
誠一は押し黙り、萩小田もそれ以上を言及することはなかった。
スマホを取り出すも結衣からの連絡は未だに来ず、野毛の一夜だけが横丁向こうの大岡川よろしく、堰止まることなくいたずらに流れゆく。
終電がなくなり、萩小田は店に残ったが、誠一は歩いて家に戻ることにした。
ハーモニカ横丁を抜けて大岡川の沿いを少し歩くと、京急線の日ノ出町駅前の交差点に出る。そこを左へ曲がり、伊勢佐木町のタクシープール、寿町のドヤ、寝静まった街を横目に、黙々と足を進める。首都高狩場線を潜った辺りから道は徐々に細くなだらかな登り坂となり、いくつかの小綺麗で小金を持っていそうな女子校を過ぎれば、アパートに着いた。コハクからおおよそ一時間足らずの旅路で、誠一は終電を逃した日はそれくらいならば、と歩いて帰ってしまうことが多かった。
灯りを点けて、彼は漫然と考えた。確かに、一時期結衣がこの部屋で「暮らし」を嗜んでいた時期、彼は安堵していたはずだった。だが、それ以上の何かが誠一にもたらされたわけでは、決してなかったかもしれない。さすれば彼は一体、結衣に何を求めているのだろう。
ポケットに入れていたスマホが揺れ、取り出すと、結衣からのメッセージだった。
「ごめん! 関内で飲んでる! ちょい遅くなる!」
この時間の「ちょい遅くなる」は基本的に早朝解散という意味合いになるのだろうし、誠一は夜明けと共に、始発で関内まで向かわなければならないことが確定されたのだった。彼は片頬を糸で引いたように引き攣らせ、解散したらまた教えてくださいとだけメッセージを送ると、「既読」の印が付いて、後は何の反応もなかった。
既読の向こうで結衣が今夜、どんな男と酒を酌み交わしているかは想像も付かないし、未だに一抹の懸念が脳裏をよぎることもなくはないのだが、それでも誠一は、結衣は明朝、必ず自分の前に姿を現すだろうと、特に意味もない言葉をよれた声で吐き散らす、前後不覚の彼女を関内駅前のロータリーに見るだろうと、何故か強く信じ切れていた。
ベッドに身を投げると、ある言葉が思い出された。お前、実は満更でもないんだろう。
それは誠一の古くからの友人である志塚の一言で、誠一はその場では軽くあしらって終えたのだが、それが思考の奥まった先で楔となり、この頃、事あるごとに反芻を繰り返してしまっている言葉だった
いやあ、危なくないか、その、結衣さんって人?
「多分、超したたかだよ。毎回そうやってベロンベロンになってるところで隙を見せたりして、自分が面倒見てやんないとって思わせんだよ。しかも素面だよ、それ」
誠一が結衣と交際を始めて間もない頃、上大岡の京急百貨店に入っている中華屋で、二人は久々に近況を交わし合った。その中で誠一が彼女の話を始めてしばらくしてから、志塚は目をすぼめながら、そう言ったのだった。その言い方に多少なりとも腹を立てた誠一は、お前、結衣のことを知らないだろと返す。
「元々朝までずっと飲むのが好きみたいな人でさ、いっつも独りじゃ絶対帰れないみたいな感じ、前後不覚でさ。俺がわざわざ迎えに行って、しかも家が二俣川だから」
そんな僻地まで送ってんのにさ、それが素面で全部演技なんて話ある? 誠一の熱籠もる反論も、志塚はあくまで意に介さない。
「女を舐め過ぎでしょ。そこまでやるんだよ。むしろ舐められてるぞ、お前」
元々、不特定多数の男と晩から朝まで飲み交わし続けてきた女。その間に、どれほど行きずりの関係があったかも分からない。その手の女は猫と同じようなものだ。
「猫?」
「二面性があるじゃん。そういうタイプって、人の喜ぶ仕草を全部分かっててするんだよ。自分は軽くてパーで付け入る隙だらけですよって感じを出して、実際は前足で転がしてるだけだから」
そしてそれはお前も例外ではない。引っ掛かったな、お前――志塚が極めて断定的な口調で言い放つものだから、流石に誠一も叫ばざるを得なかった。
「どこが転がされてるんだよ。知らん男と飲んで、介抱しに行って、二俣川まで連れて帰って、不利益しか被ってねえじゃねえか」
「それが怖いんだよ。その『やってやってる』意識が問題なのよ」
やっぱりやばい引きだと思うんだよな、と志塚は続けた。
「思うにさ、お前、実は満更でもないんだろ」
女のお世話するのってさ、大概満たされちゃうから。
志塚の言葉が浮かんでは沈みを繰り返す布団の上、まんじりともせずに窓越しの夜明けを拝み、これで何十回目かの朝迎えに出向いた。
始発の電車を関内で降り、駅前、ロータリーとコンコースを繋ぐ階段に寄り掛かって動かない結衣をいきなり見つける。誠一は慌てて引き起こそうとするも、力が完全に抜け切った人間の肢体は、いくら小さく華奢であろうが重い。必死の思いで上半身を抱え込んでいるうちに、彼女が目を覚ました。
えっ、誰? 誰? 誰? あっ、あっ、あっ、セーイチ、セーイチくんだあ。
「どこで寝てんだよ、猫じゃないんだから。ほら、立って立って」
「寝てないよお、ほんのちょっと休んでただけなのに。立ってるから、ほら、もう大丈夫だから、ねえ!」
前後に揺れ、階段を踏み外しそうな彼女を寸でのところで押さえ、肩を貸し、そのまま改札を抜ける。根岸線のシートに彼女を寝かせ、回収完了と、誠一は深く息を吐いた。
志塚の言葉が再び思い出された。徒労、一言で表せばそれで全てが済んでしまう一連の行動の中で、それもまた良しと思えてしまうごく僅かな瞬間、確かに、彼はそれを否定できなかった。どうしようもない女、気まぐれで遊び呆ける猫のような女、の後始末に渋々付き合わされる男。その構図をたまに思い起こしては、口の端の方で微かに笑う、それは自嘲ともまた異なるものかもしれなかった。

