シャワーを浴びて部屋に戻ったら、椎橋結衣の姿がない。
茂原誠一はスマホを取り出したが、彼女からのメッセージは届いておらず、ダイニングやテーブルの上に書き置きが残されているわけでもなかった。頭を掻きむしりながら玄関に向かい、履き古したクロックスやスニーカーが丁寧に揃えられている様を見て、コンビニにしろATMにしろその辺の散歩にしろ、彼女がすぐ戻ってくる線は彼の中で消えた。
「今日はどこに?」
とだけメッセージを送り、簡単に服を整え、深い溜め息をつくと家を出て、彼は山手駅方面へと向かった。
誠一が棲むアパートは根岸外国人霊園の近場にあり、駅までは緩くだらだらと続く坂道を黙々と、少なくとも十分は歩く必要があった。その霊園は隣町にある最早観光地と化したそれとは完全に様相が異なっており、人気もなく無造作に草木に囲まれ、始終薄暗い空間が広がっていた。
終戦直後に米人と日本人との間に生まれ、名前も付かぬまま死んでいった嬰児が多く眠る場所だと、この部屋に移り住む際に不動産屋から聞いたのだ。だから誠一がこの坂を上ったり下ったりする際はなるたけ難しそうな顔をするように心掛けているが、その実考えていることと言えば
「今日のコハクは空いているだろうか」
「そして萩小田さんはいるだろうか」
くらいの、極めて浅はかで小規模なものばかりだった。
根岸線で数分も揺られると桜木町に着き、降りて右を行けば観光客でごった返すみなとみらいに突き当たるが、左を行けば野毛に出る。野毛の町内は路地が蜘蛛の巣の如く張り巡らされ、その隙間を敷き詰めるように雑居ビルが並び、ごく小規模な不夜城が形成されている。
大岡川沿いの都橋商店街ではカウンターしかないようなミニマル飲み屋がひしめき合って長屋を作っており、誰が言ったかそれはいつしか「ハーモニカ横丁」と呼ばれるようになったが、その一角に「コハク」は存在する。
コハクは横丁の他の店が揃いも揃ってそうであるように、やはり小さなカウンターにバーチェアが八つ置かれているだけの狭小な造りをしていた。カウンターを隔ててマスターが立ち、その奥に粗末な厨房がある。
誠一が扉を開けると錆びついたベルがいまひとつ澄みきらない音を立て、カウンターに座る何人かの視線を浴びた。と思えば奥の一人だけ、壁に備え付けられたテレビに映る「マリノス・ホーム戦連勝」のニュースを熱心に見ており、その男が萩小田だった。
誠一は萩小田の隣に座り、カウンター向こうの壁掛け棚に置かれた二階堂のボトルキープをマスターに寄越させ、グラスに半分ほど注いだそれをソーダで割って半分ほど喉に押し込むと、ようやく口を開く気分になれた。
「いなくなってた」
「また?」
萩小田がテレビから目を離すことなく返す。
「こっちには来てないよ」
「そうですか」
ハマ駅の方にでも行ったんじゃないの、と萩小田が言うと、先週もそうだったと誠一は言い返す。
「その時もなんですけど、ジョイナスの側を出て歩いて大分歩いたとこに小汚いビアバーがあって、そこで変な奴らと潰れてて」
「変な奴ら」
「神大あるじゃないですか、白楽の方の。そこ学生の二、三人と。皆男で、皆仲良くセンターで中分けにして、皆色が死んでるみたいに白くて」
「大分私怨入ってない?」
「そりゃ、入るじゃないですか。毎週だか毎日だか俺をほっぽって、知らん男と飲み交わしてりゃ」
百歩譲って、誠一が知らないだけで結衣の知人であればまだしも、彼女にとってもまったく初対面の、しかも男が大半であることが、彼にとっては由々しき問題だった。
その日、早朝に結衣から着信があり、誠一は寝起きの不覚な状態でそれを取った。スピーカーの向こう側は店内だろうか、皿が擦れる音と、呂律が完全に回っていない結衣の声を聞いた。
「セーイチくんじゃん」
「はい」
「セーイチくんさあ、ピザ」
「ピザ?」
「ピザ食べて! 一切れまだ残ってるから」
「すいません、この人もう多分これ一人で帰れないやつです。すいません、迎えに来てくれますか。すいません、って言うか彼氏さんでいいんですよね?」
最後の「すいません」を連呼した声はまったく知らない男で、そこで誠一はようやく事を把握し、着の身着のままで部屋を出て、坂を上って始発の根岸線に乗った。
夜明けの平沼の商店街にはそれらしき大学生風の男数名と、それらに介抱された結衣の姿があり、右に左におぼつかない足取りで揺らめきながら、男共の肩に肘をぶつけ、首を仰け反らせて笑っている。誠一が声をかける前に、男のうちの一人が気付いたようで
「すいません、彼氏さんですよね? 電話したの僕です」
「えっ? 知り合い? セーイチくん、知り合い? カナザワくん知ってんの? これね、セーイチくん」
「初対面です、初対面です。ほら結衣さん、彼氏さんですよ。良かったですね」
カナザワくんと思われしき男は結衣を誠一に「引き渡」すと、せいせいしたとでも言いたげに右肩を二、三度回し、こう言った。
「あの、本当、マジで僕ら何もしてないんで。大丈夫です、本当、すいません」
すいませんを言い終えるか終えないかのタイミングで彼らは横浜駅方面へと背を向けて足早に歩き出し、誠一と結衣だけが早朝の商店街に取り残される。
今更、問い詰めたいことも特にない。彼女もそれを見越しているのか、いないのか、彼が口を開くよりも早く、アルコールでふやけた語彙を駆使して事の顛末を教えてくれた。
「あのねえ、ピザ美味しいからよく行くんだけどね、なんか隣のテーブルで楽しそうだったから声かけて」
皆いい子だしねえ、なんか凄い持ち上げてくれるからめちゃボトル開けちゃってねえ、そしたらなんかねえ、こんな時間でって言うか、今何時?
「五時だよ」
「始発あんの? 違う店行こうよ」
「始発あるから俺が来れてるんでしょ」
「うわっ、怒ってるよね? 怒ってるじゃん? 怒るの怖いよ」
ぐずる彼女の手を引いて、横浜駅へと向かうまでの道のりが遠い。京急線を越え、帷子川を渡り、東口そごうの看板を拝んだあたりで、誠一は漠然とした憤怒の中に、心なしかの安堵が砂粒のように紛れているような感慨を拾ってしまい、その気付きが彼をますます腹立たせるのだった。
萩小田は何分か続いた誠一の話をただ黙って聞いていたが、やがてクリームチーズの欠片を口に放り込み、投げやり半分でこう言った。
「まあ、いいじゃん。だって結衣ちゃんは最終的に茂原さんに戻ってくるんでしょ」
「そりゃ、そうですけど」
「羨ましいよ。俺なんてもう嫁も娘も戻ってこないんだから」
萩小田が肩をすぼめて笑う。しかし誠一は釈然としない。
「まあ、長い時間をかけてやっとここまでの関係になったってのは、そうなんで。それをみすみす、たかが夜遊び如きで」
「まあねえ」
萩小田は彼から二席分離れた椅子を眺めながら、元々ふらふら遊びがちな子だったしね、と言った。結衣が足繁くコハクに通っていた頃の指定席だった。
誠一が結衣を見初めたのは他でもなく彼がコハクに初めて足を踏み入れた日で、彼女は入口から六番目の席に座っていた。
コハクは一見お断りの店で、新客は常連と連れ立ってしか入ることが許されない。誠一と萩小田はそれぞれの勤め先で担当と顧客の関係で、桜木町近くの萩小田の職場で打ち合わせが済んだ後、野毛の安い居酒屋で飲み、二軒目として向かった店がコハクだった。萩小田は結衣含むカウンターに座っていた何人かに声をかけて奥の席へ向かったが、誠一はドア横でしばし立ち尽くしてしまった。
椎橋結衣を一目見て、よほどこじれた人間でない限り、誰もが「猫のよう」と例える。丸く吊り上がった大きな目。尖った左右の犬歯はさながら牙を思わせ、柔らかそうな猫毛をパーマボブでそつなくまとめ上げる。小さく華奢な肢体をオーバーサイズのプルオーバーフーディで覆い、猫背で芯がなく、右へ左へと揺らめいている。
「茂原さん、何やってんの」
萩小田に向こうから声をかけられ、慌てて奥へと進む。萩小田は結衣を手で指し
「この人、結衣さん。椎橋結衣さん。大分常連よね。今は何やってるんだっけ?」
すると、結衣は
「椎橋でーす。エアキャビンのスタッフやってまーす。よろしくー」
と、猫背を起こすこともなく言い、誠一の方を二、三秒振り向いたかと思えば、すぐにカウンターの方へ視線を戻し、肩肘をついて、グラスに注がれていた何かしらをつまらなさそうにすすった。
「あっ、茂原誠一です。萩小田さんが仕事のお客さんで」
返事はなく、萩小田が心なしか哀れみを織り交ぜつつ呟いた。
「まあ、もうちょいお酒入ったらエンジンかかるから。多分」
ただ、彼の言葉は決して気休めばかりではなかったようで、その後数十分も経つと結衣は人が変わったかのように饒舌になり、積極的に二人の会話に混ざった。
「エアキャビンってさあ、ピンと来なかったでしょ? ですよね? 何年か前にできたでしょ、駅と赤レンガ結んでるやつ。ロープウェイ」
聞くところによれば、彼女は元々コスモワールドのバックオフィスで働いていたが、数年前のエアキャビン開業に伴って異動したようだった。シフト制で不定休。休みに出向きたい場所も特になく、コハクを拠点に野毛中のバーの暖簾をくぐり、見知らぬ誰かと酒を飲み交わして、後はもう好き勝手するのが趣味らしい趣味、と結衣は言った。
「好き勝手?」
「好き勝手って、そりゃあ、って言うかこれって私の口から言わせんの?」
デリカシーってあるじゃん、デリカシーって! 結衣は誠一の背中を中々の強度で二、三度叩き、誠一は背骨にいくらかの痺れを受けると共に、あまり聞きたくない話を聞いてしまったと悔やんだ。
その後、結衣は酒を煽っては自らの職場への呪詛を、その内容とは見合わぬ笑顔で延々と吐き続け、日付が変わるかの頃に別件があると言い、折り目だらけの千円札を何枚かカウンターに置くと、足早に席を離れて野毛の街へと溶けていった。誠一は散らばった千円札達を見て、これって足りない分は僕らの持ちなんですかねと萩小田に尋ねると、彼は何も言わずに頷いた。
白ワインを傾け、右に左に揺らめくそれを眺めながら、萩小田が言う。
「人に平気でつけてくるし、気まぐれだし、酒癖悪いし、大分遊んでるだろうし、でもモテるね」
「モテるんですか」
「ああいうのに弱い人って多いじゃん。自分の思い通りにならなさそうな人って言うか、猫っぽい人」
でも多分茂原さんのこと気に入ってたと思うよ、初対面であんなにバシバシ背中叩くなんてことないからね。萩小田が言う。
「フリーですか、今」
「いや、もう色々あり過ぎて逆にフリーみたいなもんじゃない?」
相当頑張らんとあれを繋ぎ止めることは難しいよと萩小田は忠告したが、誠一の決意は固かった。
その後「一見さん」でなくなった彼は足繁くコハクに通い詰め、結衣と萩小田の間、入口から七番目の椅子を指定席とした。
他愛もない雑談を積み木の如く慎重に重ね続け、しばらくして連絡先の交換に漕ぎ付けた。日毎夜毎、どこからともなく流れくる彼女の他の男との浮名に脅かされながらも耐え続け、やがてコハクを抜け出して二人、別の店でも落ち合うようになり、いよいよそうなってしまえば、どこかの夜に「後はもう好き勝手」してしまえば良かった。
苦節一年と少しばかり、季節を一巡するほどの時間を費やし、ようやく手に入れた。誠一にとっては互角のつもりで抱き合い、ついに己のものとなった、という自負はあった。「達成感」という言葉ではいやにチープが過ぎる、元々より持ち得る性としての本能に促された強い自意識、炊き付けられた生存的闘争心のある一つのパターンとしての結実、とにかく誠一はその次の日の朝、あらゆる点で満ち足りていた、のだが。
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