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 学生街は盛況だった。露店が並び、少し目を向けただけでも、ハーレイ・クイーンの仮装、マリオの仮装、夢の国のネズミの仮装、遠く向こうでは、先程のマーベルが何者かに向かって大手を振っていた。

「もうちょいお通夜な感じになると思ったんだけどな」

 廣川が言う。この賑わいは想定外だった。運営側がしくじって、しけた雰囲気になるのではないかと少しばかり期待していただけに、複雑な気分だ。

「背に腹は代えられん」

 ここまで来たならば、食い下がれまい。俺は、謎の信念を胸に抱いていた。つくづく、一々下らないことにばかり拘る男だな、こればかりは自分でも笑うより他は無かった。
 廣川が仮面を手に取り、呟く。

「こんな安っぽいお面を被っただけで仮装しましたなんて、許されんのかね」
「違う、それは違う!」

 俺は、自分でも驚くほどの大声を上げた。その瞬間、周囲の人間という人間が俺達を凝視したが、それでも俺は構わなかった。

「外見じゃない、中身が本物のジャックなんだよ。俺達もジャックも天国にも地獄にも行けないんだよ、そこら辺の格好だけ真似してる奴らと次元が違うんだよ、分かるか」

 俺の言葉は最早出鱈目でしかなかったが、あまりの剣幕に不意を打たれたか、廣川は後ろに引き下がった。

「分かった、分かった」
「よっぽどヘマしなけりゃ留年できないし、でも他に行きつくあてが無いんだよ、どこにも行けないんだよ、行けないからこうやって被るんだろうが」

 俺は輪ゴムを伸ばし、いよいよジャック・オー・ランタンの仮面を耳にかけた。両目や口元を動かす分に支障は無いようだが、鼻元をくり抜くところまでは流石に気が回らなかったのか、少しばかり息苦しさを覚える。
 仮面を付けた俺を見て、廣川は嘲笑混じりの薄ら笑いを浮かべている。

「お前、変だぞ」
「そりゃそうだろ」
「映画泥棒っているじゃん、スーツにカメラの被り物してるやつ。あれはちゃんといいスーツ着てるから様になってるんだろうけど、就活スーツにちゃっちいカボチャのお面じゃ、まあみっともない」

 能書きばかり長い男だった。

「うるせえ、いいからお前も被るんだよ、早くしろ」

 俺に急かされ、廣川はしばらく何事かをぶつくさと呟いていたが、やがて腹を括ったかのように仮面を取り出し、顔にかけた。彼が言うように、地味な就活スーツに粗末な仮面が合わさった姿は不格好で、滑稽極まりない代物であることは確かだった。

「ひでえ」
「言っとくけど、お前もこれだぞ」

 互いをひとしきり嘲笑った後、しばし、沈黙が流れた。いざカボチャの仮面を付けたからと言って、これから何をどうする、という目標があるわけでは無かった。

「これで、どうするのよ」

 廣川は言う。

「そりゃ、とりあえず歩くしかないでしょ」

 兎にも角にも商店街をあても無くさまよい歩き、辿り着くはずの場所の在処さえも朧な我々の悲哀を、ジャック・オー・ランタンになぞらえて再現する、それだけが俺達の使命だった。

「できるだけ威圧感を与えろ、できるだけ恨みのオーラを放ちながら歩け」

 俺達は緩々と歩き始める。仮面越しの視界は非常に悪く、人を避けながら移動するとなると、至難の技だった。右によろけ、左によろけ、とうとう俺は、サンタクロースの格好をした女集団にぶつかった。

「あっ、すいません」

 そのうちの一人が慌ててこちらへ振り返り、小さく会釈をしたが、仮面を付けた俺の全身を見るや否や、瞬時に表情が強張り、見なかったことにしよう、とでも言わんばかりに、そそくさとその場を離れて行った。

「サンタは気が早すぎるだろ」

 俺がせせら笑っていると、隣で一部始終を見ていた廣川が、切り出した。

「クリスマスまで内定決まってなかったらさ、どうすんの?」
「いや、取れないでしょ。こんなんして」

 俺は言いながらも、この言葉が間違いであってほしい、そう願わずにいられなかった。一方で、俺達は年が暮れようとも明けようとも、どうせその辺りをさまよい続けているのだろう、という呆けのような諦観も、少なからず持ち合わせていた。

「そうか」

 廣川が、まるで何かを悟ったかのような、落ち着いた口調で応えた。
 学生街の隅から隅までを歩き終わり、もう一周。厚紙の仮面に就活スーツ。奇天烈な格好で練り歩くだけの俺達を警戒しているのか、或いはその先、その真の意味を薄々なりとも勘付いているのか、ともかく道行く人間という人間が、俺達をじりじりと避け始めていた。それは痛快であり、物悲しくもあった。
 廣川の顔を覗き込む。その顔は仮面に隠れ、奥の表情は読み取れない。
 この男が一体何を思って、俺が咄嗟に考えた低俗な思い付きを呑んだのかは定かではないが、彼もまた俺のように、どこにも行けやしない、辿り着けやしない宿命であることを甘んじて受け入れているのだろうかと考えると、それはあまりにも虚しく、侘しい話ではないか。
 俺達はそれきり何を話すこともなく、ハロウィンで一面華やぐ学生街の、遥かその先を見つめ、黙々と歩き始めた。

 夕暮れを過ぎたあたりで廣川と別れ、アパートへと帰った。
 俺は用済みと化したジャック・オー・ランタンの仮面を力任せに丸め、ゴミ箱へと捨てる。煮え切らない気分で床に突っ伏し、キッチンの向こうへ目をやると、件の深緑色のカボチャが飛び込んできた。目が合ったような気がした。

「分かったよ」

 俺は立ち上がり、諭すように呟いた。
 このカボチャを煮付けにして、俺の腹の中に収めてくれよう。来るべき時だと思えた。俺は何としてでも、カボチャを倒さなければならなかった。

「お前の煮付けをするからな、してやるから待ってろ」

 カボチャの煮付けのレシピを検索し、適当なページを開く。ざっと読んでみると、どうやら我が家の小さな鍋でも作れるらしく、ほくそ笑んだ。
 まな板の上にカボチャを置き、その艶めく深緑の球体に包丁を当て、真二つに切る。予想以上の強い手応えに面食らった。こいつ如きに切らせまいと、カボチャが逆らっているようでもあった。
 取手を持つ指先に鈍い痛みを覚え、俺はたじろぐも、包丁の峰に左手の掌を強く押し込むことで、漸くカボチャは音を上げる。俺は黄色く熟れたカボチャの断面を軽く撫で、静かに笑った。
 更に、一口サイズに切り刻む。不器用ながらも辛うじて指を切り付けることも無く、無事サイコロ状に切り分けた。それを鍋の中に入れ、在り合わせの砂糖、みりん、料理酒と醤油を続け様に投入する。途中、大匙と小匙を間違えたり、みりんと酒の分量を間違えたりしたが、食べられないことはないだろうと、特に気にせず、鍋に火をかけた。
 沸騰が始まったら、鍋の大きさに合わせたアルミホイルをかけ、更に十分かけて、丁寧に煮る。醤油と砂糖が合わさった、香ばしくも甘ったるい匂いが、ワンルームに染み渡るように広がっていく。
 アルミホイルを取ると、湯気が俺の首を包み込むように立ち込め、その向こう、濃いきつね色をしたカボチャの煮付けが、鍋の底に転がっていた。勝ったような気がした。確かに俺はこの瞬間、勝ってしまったのである。
 そう、俺はジャック・オー・ランタンに勝ったのだ、と。
 食器棚の中でも最も綺麗な皿を取り出し、煮付けをよそっては呆れるほど丁寧にラップをかけ、冷蔵庫に入れた。
 まだ食べない。まず朱音に食べてもらおう、どう考えた。彼女は一体何を言うのだろうか、俺は根拠不明の期待に心を躍らせ、彼女を待った。

 何十分と経たず、待望の朱音は部屋にやって来た。
 彼女はいつかと同じように部屋をくまなく見渡したが、丁寧に畳まれている布団を見て、満足気な表情を浮かべた。

「合説はどうだった?」

 朱音の言葉で、そんな話もあったなと思い出した。あまりにも印象が薄く、何日も前の話かのように思えた。

「ホールのベンチは固いんで嫌いです」
「え?」

 俺は早く、カボチャの煮付けを朱音に食べさせたかった。

「そんなんどうでもいいんですよ、レンジのカボチャで煮付けを作ったんですよ。凄くないですか?」
「あっ、本当だ。無くなってる」

 冷蔵庫からカボチャの煮付けを出し、朱音に差し出す。加熱でほぐれ、柔らかくなった繊維は再び冷えて固まってしまったが、それを差し引いても、感心させられる自信が俺にはあった。

「多分うまいですよ、どうですか一口、食べてみて」

 俺は無理矢理カボチャの皿を朱音に押し付けた。朱音も仕方無しと、カボチャのサイコロを一つ、指で掴み、口に入れた。彼女はしばらくの間、もごもごと口の中でそれを転がしていたが、やがて飲み込み、こう言った。

「まずい」
「え?」

 彼女の顔に笑みは無い。

「いや、まずい」
「マジっすか?」

 残酷な一言に、俺はたちまちに打ちのめされた。
 俺の期待を、何と非情なまでに切り捨てる女だろう。これで俺が二度と立ち直れなくなったら、どう責任を取ると言うのだろうか。この俺がとうとうカボチャのお化けを、ジャック・オー・ランタンを倒したと言うのに。この秀逸なメタファーを、俺が明日への活路を僅かに繋げたことを、この女は何一つ分かっていないのだ。

「もうちょい気を使ってくださいよ、頑張ったんだから」
「いやだって、これ、お酒とみりんの分量間違えたでしょ」

 思わず、手を挙げてしまった。

「よく分かりますね、そんなん」
「まだカボチャ残ってるでしょ? 私がもっといいの作るから。キッチン空けて」

 朱音は俺を押しのけ、コートを着たままキッチンの前に立つ。その横顔を見るに、どうも彼女は満更でもない様子だった。
 朱音に全てを否定されたカボチャの煮付けが、テーブルの隅に置かれている。試しに一欠片、口の中に運んでみた。砂糖を入れ過ぎたか、やけに甘ったるい。それでいてアルコールが抜けきっておらず、絶妙な臭みが後に引く。なるほど、お世辞にも美味いとは言えない出来だ。
 こういうことなのだ、と俺は痛感した。
 カボチャの煮付けすら満足に作れない男だ。やれ先が見えないだの、やれさまよい続けるだの、結構なご身分ではないか。笑わせてくれる。

「朱音さん」
「何?」

 朱音は、今にカボチャを包丁で切り付けるところだった。

「俺、職に就く前にとりあえずカボチャを倒したいんです。だから、ちょっとそこをどいてください」
「はあ?」

 呆気に取られる朱音をキッチンから追い出し、包丁とカボチャを強引に奪い取る。
 今に、この女を一口で唸らせるようなカボチャの煮付けを作ってやる、俺はハロウィンに誓った。さすれば、今度こそ俺の勝ちだ。お前を倒すことで、俺が着実に積み上げた閉塞感をかなぐり捨てた向こう、その向こうに滲む新たな光線をおびき寄せられるような、そんな気がしてならなかった。
 鈍くも白く眩しい光沢を放つカボチャを前に、俺は思わず笑みを零した。

 了

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