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 それから、一週間が過ぎた。この七日間で気温は加速を付けて下がり、街路樹の葉が潤いを失って茶色く萎れ始め、たちまちに冬の足音が近付き始めた。
 俺は相変わらずスーツに袖を通すこともなく、圧倒的な存在感を以て電子レンジの上を陣取るカボチャを見て、時々「いひひ」と笑うなどして日々を過ごしていた。

「ずっとこんなところに置いて、傷まない? 早く食べちゃいなよ」

 朝食で使った食器を洗いながら、朱音がカボチャを指差し、俺に言う。

「食えないんですよ、恐れ多くて」
「何それ」

 彼女は目を細める。

「ほら、こうやって置いてあるとハロウィンだなって気がしませんか」
「ハロウィン?」
「俺もハロウィンに取り残されずに生きていけるんだって、気がするんですよね」
「前にも言った気がするけど、正樹って自分の気まぐれな思い付きって言うか、そういうのに妙に拘るよね」

 仏頂面の朱音が、カボチャを人差し指で軽く突く。俺は、先週の廣川の言葉を思い出してしまった。

「それ、廣川にも大体同じこと言われましたよ」
「ほら、やっぱり同じこと皆思ってるってことでしょ?」
 朱音は自分の髪を手で梳きながら、乾いた笑みを俺に向ける。
「そういう拘りが祟って就活もグダったんだから、もうちょっとそういうのを捨てる努力をしないと」
「はい」
「まだ学内説明会ってあるんでしょ? 定期的には」
「はい」
「いつ?」

 尋問のようだ。とうとう観念する時がやって来たようだった。

「多分、今日とか明日とか」

 恐る恐る朱音の方に目をやると、彼女は案の定、思いがけない言葉に目を丸くしている。

「何でそんな悠長に構えてられるの?」
「いや、別に悠長ってわけじゃないんですけど」

 予想以上の剣幕にしどろもどろな俺をよそに、朱音はクローゼットの奥から俺の就活スーツを引っ掴み、俺の胸元へ、ハンガーごと乱暴に押し付けた。

「行ってきな、今日こそは」
「はい」
「絶対いい会社あるから、行くだけ行ってきな」
「はい」
「約束だからね!」

 朱音はコートを羽織ると、いつものように素早く部屋を出て行った。
 果たして独り取り残された俺は、皺無く整然とハンガーに吊るされたスーツを、呆然と眺めていた。今年の夏にクリーニングに出して以来、一度たりとも着ていない。
 ここでスーツを再びクローゼットの奥にしまい、どこかへ遊びに行っても、そのまま寝ても良かった。ただ、さすればあの朱音も、とうとう俺に愛想を尽かすことは間違い無いだろう、と思った。二、三年もの長きにわたって朱音の恋人を務めてきた人間としての、一種の「カン」のようなものが、今日はいつにも増して機敏に働いていた。

「お前、あの人いないと多分マジで死んじまうぞ」

 廣川の声が天から降って来る。俺は漸く覚悟を決め、スーツの裾に腕を通した。

 俺が夏から痩せたからか、それとも背広が崩れて広がったのか、自分の採寸に合わせて作ったはずのスーツが、必要以上に大きく感じられた。久々に髪型をジェルで整え、ビジネスバッグを持った俺が、電車の窓に薄く反射している。

「俺はロックスターになる」

 誰にも聞こえないように、ドアの向こうにうずくまりながら呟いた。

「俺は和製サーティーンズ・フロア・エレベーターズになる」

 口に出しながら、我ながらつまらない冗談だと自嘲した。いたずらに歳を重ねた挙句、いつしか本心のつもりが冗談に成り下がってしまった台詞である。俺は、哀れだろう。
 電車を降り、駅から大学へ至る学生街を歩いていると、道路の中央に規制標識が置かれていることに気が付いた。目を通すと、普段なら昼過ぎで終わる歩行者天国が、どうやら一日中続くらしい。

「『歩行者天国』ハロウィンパーティー(仮装祭)開催の為、午前一一時より終日(午後二四時迄)車両通行止め」

 初耳である。去年も一昨年も、そのまた前の年も、このような行事が行われていた記憶が無かった。
 周囲を見渡すと、「HALLOWEEN」と、赤文字のバックプリントが施されたパーカーを着た人間を、ちらほらと見受けられた。
 パーティーとやらを企画した団体のスタッフだろう。そしてその風貌や会話、何より全体の「なあなあ」とした雰囲気から察するに、学生団体、しかも我が大学の有志によるものだろう、俺は推測した。何れにせよ、俺には縁の無い代物だった。
 黙々と足を進めていると、突然俺の右横から、何者かの左手が「ぬっ」と現れた。ぎょっとして視線を右方に移すと、赤いボディスーツに包まれた、ただならぬ格好をした男が一人立っており、俺に何かを話しかけ始めた。

「今日の五時過ぎからなんすけど、この通りでハロウィンパーティーするんすよ」

 男は、チラシのようなものを左手に持っている。よく見ると、厚紙で作られたジャック・オー・ランタンの仮面だった。両目と口の部位が雑にくり抜かれており、左右の端それぞれに輪ゴムが取り付けられている。輪ゴムに両耳を引っ掛ける構造のようだ。
 この男の格好、どこかで見たことがあると思ったら、もう何年も前に映画で観たアメコミのヒーロー「キャプテン・マーベル」そのものだった。ドン・キホーテ辺りで揃えたものだろう、ことのさら、俺とは遠い人種である。

「お兄さん仕事ですか、あっ、就活ですか」

 マーベルはどうやら話している最中に俺の風貌から全てを察したのか、突然よそよそしくなった。
 特に「しゅうかつですか」という後半の七文字からは、ハロウィンが近付いているにも関わらず、未だに就活を続けている俺への多大なる侮蔑、そしてほんの少しばかりの同情、そしてそれに気付いてしまったことへの気まずさ、その他諸々、様々な負の感情がない交ぜになっていることが見受けられ、俺をますます腹立たせるのだった。

「就活ですね」
「あっ、すいません、大変で」

 マーベルは頭をかき、しきりに頭を下げているが、俺はもう、何をされてもこの男を許す気にはなれなかった。

「就活なんでね、あんまりそういうのには行けそうにないですね」
「いや逆にっすよ、逆にこういうのでパーッとやって就活の励みにしてもらえれば」

 考えておきますとだけ言い、その場を離れた。
 ジャック・オー・ランタンの仮面は、貰えるだけ貰ってはおいたが、使いどころが思い浮かばず、ビジネスバッグの奥深くに潜り込ませた。

 学内説明会は、学生棟の隣に位置する学生ホールの中で催される。
 春夏の採用で優秀な学生を取り零した企業がめいめいブースを組み、やはり春夏に採用から取り零された学生を待ち構えているのだ。てっきり中小、零細企業ばかりだろうと俺は高を括っていたが、ここ数年の売り手市場の煽りか、この季節になっても、名前を聞いたことがある企業のブースがちらほらと見受けられた。
 特に興味がある企業があるわけでもない。興味を持つ努力もしていない。わけも無くブース内を一周し、どこにも行き着く場所が無いことを悟ると、無性にくたびれ果ててしまうのだった。
 三ヶ月前も、こうだった。確固たる信念も無くレコード会社ばかりに狙いを定め続けた挙句、敢え無く全てに落とされた。頼みの綱もこればかりと学内説明会へ行けど、今更別の業界を志望する体力も気力も無く、漫然とブースの看板が連なる様を眺め、俺は一体どこに流れ着くのだろうかと考えていたら、突然漆喰が溶け始め、全てが崩れたのだ。
 あれから俺は、何一つ変わっていやしなかった。それどころか、俺はどこにも行けやしないのではないかという疑念は、日を追うごとに強まるばかりだった。
 ホールの隅に設置されたベンチに座っていると、その向こうで、見知った顔がブースとブースの間を右往左往している。よく目を凝らすと、やはり廣川だった。彼もまた濃紺の背広を着て、所在無げな表情を浮かべている。
 今に気付くだろうと俺が廣川の顔を凝視していると、彼は案の定、数秒も経たないうちにこちらに気付き、おぼつかない足取りでこちらの元に寄って来る。

「その気になったか」

 廣川は仲間を見つけて安堵したのだろうか、だらしのない笑みを浮かべている。

「いや、これはポーズだ」
「ポーズ?」
「スーツ着て適当な会社のパンフだけ貰ってりゃ、とりあえず今日は凌げる」

 その言葉に廣川は呆れを隠せないのだろう、口をあんぐりと開け、何とも形容し難い間抜け面を俺に見せつけた。だが、俺もその顔を見て笑えるほど、肝が据わっている男ではなかった。
 どうにも居た堪れなくなり、ベンチ横のテーブルから、企業パンフレットを何部か適当に掴み取り、ホールを離れることにする。

「部室か」

 廣川が俺に続く。この男も、ホールを抜け出したいらしい。

「少なくともここからは退散だ、終わり終わり」

 ホールのドアを開け、学生棟へと続く廊下を歩く。途中、スーツの男女二、三人とすれ違ったが、やはり彼等も俺達と同じ境遇に立たされているのだろう。皆が皆、憂いの雲に取り巻かれたような表情を浮かべている。
 去年の今頃、似たような説明会に、似たような面持ちで参加する先輩方を傍から見て、まさか俺が、同じような立場に置かれるとは思ってもいなかった、むしろ、こうはなるまいと固く決心したはずだったのだが、今となっては何も言うまい。
 俺達は顔を見合わせたが、言う言葉は互いに何も無かった。階段を黙々と上がり、部室に入り、なるべく下級生と距離を取れるよう、隅のテーブルを選び、腰掛ける。場所が変わったことで少しだけ居心地は良くなったが、またしても逃げ道を選んだことに対する罪悪感も無いわけではなく、俺は誠に理不尽かつ無根拠な苛立ちを覚えるのだった。

「なんかこう、もうダメなんだよね」

 無茶苦茶な怒りをよそに、俺がぼやく。

「何がどうダメなんだよ」
「面白くない、何もかも面白くない、ビーディ・アイのセカンドくらい面白くない、ハロパにでも行かないともう俺は面白くなれない!」
「ハロパ?」

 廣川が怪訝そうに聞き返す。

「あれだよ、ハロパってほら、ハロウィンパーティー」

 ビジネスバッグの奥から、先程マーベルから貰ったジャック・オー・ランタンの仮面を探り出し、廣川に見せつけた。

「学生街でやるらしい」
「なんだ、俺も配られたわ。いらねえって言ったのに」

 廣川が、やはりビジネスバッグの奥から例の仮面を取り出した。俺は拍子抜けしてしまったが、気を取り直し、こう言った。

「仮装するんだよ、そんで皆でワーッてやるんだよ、やるぞ、ワーッと」
「何に?」
「キャプテンマーベル」
「何言ってんだお前」

 所詮冗談半分、やけ半分の突発的な思い付きである。廣川は非情なもので、俺のろくでもない戯言に耳を貸す気は一切無いようだった。

「ダメか、ダメだよな」

 これを使う機会も無いだろうと、もう一度、ジャック・オー・ランタンの仮面に目を向ける。すると突発的に、先週のある日の朝のニュースで耳にした、あることを思い出した。

「あのさ、ジャック・オー・ランタンって何者か御存知?」
「知らんよ」

 廣川の反応は鈍い。

「こいつね、天国にも地獄にも行けないからずっとこの世をさまよってんの」

 俺は、仮面を人差し指で軽く叩きながら言った。そう言いながら改めて仮面を見ると、両目と口の部位に刳り抜かれた空洞の向こう側には、果て無く空虚な空間が広がっているのではないかと思えてならなかった。

「親近感持つじゃない、そう考えると」
「どこに?」
「俺もお前も行けないんだから、天国も地獄も」

 俺はそう言いながら、東山が「てつやん」でクダを巻いていた、あの日のことを思い出した。彼が留年と言う名の「地獄」を引きずってこれからの一年を歩むとするならば、俺達は一体、何を抱えて暮らして行くのだろうか、とも少しばかり考えた。

「何に対しての天国と地獄なんだよ」

 廣川が面倒そうに返す。

「そりゃ地獄ってのは留年だろ、東山の言うあれだよ」
「じゃあ、天国ってのは内定か、内定して食い扶持が保証されたってところか? そんな単純な話か?」

 廣川が吐き捨てるように言う。俺は彼の物言いに些か不快感を覚えたが、その言葉はもっともだった。

「まあ、天国かってなると語弊がある」
「だろ」
「でも、今どこにも行き場が無いのは、そうだろ。ここには留まれない、新しい居場所も見つけられない」

 しかし俺は一体何の為に力説しているのだろうか、つくづく情けなくなる。そう思えば思うほど、それを誤魔化すかのように、自然と声が大きくなる。

「はあ」
「ジャックなんだよ、オーランタンなんだよ、カボチャなんだよ」
「分かった分かった、分かった分かった分かった、だから要するに何だって」

 次第に強まっていく俺の興奮を抑えるかのように、廣川が早口で喚く。
 その言葉に、俺も漸く落ち着きを取り戻し、ジャック・オー・ランタンの仮面を机に置き、言った。

「だからさ、俺達が何の仮装をするかってこと」
「これ?」
「そう、それ」

 俺は仮面を折り畳んでポケットにしまい、顎を部室の外へとしゃくった。

「これを被って、俺達はハロパに殴りこむ」

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