B’zと渋谷陽一と俺

B’zと渋谷陽一と俺

渋谷陽一の訃報を聞いた。
僕はもう長いことB’zファンをやっており、ということは必然的に「アンチロキノン」となる。ロキノンの標榜するロック史観からB’zが徹底的に無視されてきた以上、その立場を取るしかない。
とは言えNirvanaもOasisもミッシェルもくるりもロキノンに触れなければ知り得なかったし、そのくだりの中で渋谷氏の矜持に触れる機会も何度とあった。好き嫌いに関わらず、僕を含めた本邦のロックファンの大半がこの人の思想の支配下にあったことは否定できない。
それに、渋谷氏自体がB’zをはじめとするビーイング系に真正面から否定的でなかったことは知っていて(どちらかと言えば後進の山崎やタナソー辺りの方がよほどタチが悪いイメージがある)、B’zが過去一度もロキノン誌に取り上げられたことが無いのは、単にその矜持にことごとく噛み合わないバンドだからだというのも最終的には理解できていた。

だからこそ2017年のひたちなかのROCK IN JAPAN初日、B’zがGRASS STAGEに立ったその日の意味をたまに考える。
結果として渋谷氏とB’zとの邂逅はあれが最初で最後になってしまった。互いに元気ならまた何度か機会はあるだろうし、その度に何かしら話してくれるだろうと思っていたが。
強いて考えるなら、ロキノンにおける仮想敵としての役割を四半世紀以上にわたって果たし続けてきた実力と実績をたたえる「敵ながらあっぱれ」的な思いがあったんじゃないか。もう少し綺麗に言うなら、相容れない者同士が歳月を経るにつれ、少しだけ互いの美学が重なった瞬間があったのかもしれない。

ここ数年で、B’zおよび松本稲葉両氏のフットワークは見違えるほど軽くなった。特に驚いたのが、交わることは今後も無いだろうと思っていたロキノン系バンドとの積極的なコラボ。
この間のUNITE 2でイエモンと並び、笑顔で写真を撮るB’zの姿を誰が想像できたか。RadioheadのOK Computerのライナーノーツで「対バンしようぜ」と挑発し尖り散らしていた吉井が、稲葉と並んでいる、僕がファンになった十数年前にしてみれば考えられない光景だった。
それ以外にも時雨のTKを筆頭に、後進のロキノン系バンドがB’zへのリスペクトを抵抗無く語れる時代。本当に良い時代になったと思う。これも2017年のROCK IN JAPANがあったからこそだと、漠然と信じている。

「敵がいなけりゃ」もいなくなってしまえば過ぎた話。僕にとっての偉大なロックヴィラン。合掌。

(2025.07)

アルバム「FYOP」の感想を本気で書いた